囲碁・将棋で同時プロであった人物は存在しますか?
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北村文男さん
将棋がプロ六段、碁は関西棋院の三段。同時に両方のプロでした。
ついでに、記録を調べると、
1920年12月4日生 - 1993年1月14日没。三重県鈴鹿市出身。将棋では板谷四郎九段門下。日本将棋連盟棋士番号76。囲碁では関西棋院中部総本部所属、伊神肇六段門下。
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本因坊算砂の件については、伝聞には多くの誤りがあると考えられています。
算砂が、その時代において将棋の第一人者であったという事実はどこにも残っていないはずです。
初代大橋宗桂に後手番で勝ったという棋譜は確かに残されていますが、別に宗桂が算砂の弟子だったなどという歴史的に信憑性のある記述はどこにもありません。
(坐陰談叢の記述は、ある程度創作であり、囲碁寄りに書かれていることも、誤解を生む元ですね)
また、宗桂は、算砂より年長であることや、それぞれ碁所・将棋所に就く以前の接点を示す事実に乏しいことから、いま、一般に推測されているのは、算砂は宗桂の将棋の実力を知り、将棋所の適任者として紹介したのだろう、ということです。
ただ、碁打・将棋指衆の総取り纏めとしての地位は算砂によって確立されたので、碁方が上席であることは、やむを得ない事実として残されました。
尚、算砂の時代は、碁所・将棋所は、幕府公認の官職ではなかったことも明らかになっているようです。
碁打・将棋指衆の取り纏めをさせるのに都合がよいので、幕府は「官賜碁所」と幕府が認めたと勝手に名乗っているのを黙認していたのだろうということです。
故に、算砂は、碁・将棋両方の専門職という見方は、疑問があります。
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私が本で読んだことがありますが、初代の本因坊算砂は、囲碁及び将棋の実力が当代一であったと記憶しております。
徳川家康から囲碁・将棋所を任されたのですが、両方は大変なので、自分は囲碁の方をとり、将棋は一番弟子の大橋宗圭に譲ったとあります。なので江戸時代では、常に囲碁の方が将棋より上席であったとのことです。
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