加藤一二三九段は敬虔なクリスチャン?
将棋の加藤一二三九段は敬虔なクリスチャンとして有名ですがプロテスタントでなくカトリックだそうです。
普通カトリックの人は自分のことをクリスチャンとは言いません。
敬虔なクリスチャンと紹介される加藤一二三九段に抵抗ないのでしょうか?
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「普通カトリックの人は自分のことをクリスチャンとは言いません」とご質問にありましたが、
確かに、あまり使いません。
日本のカトリック教会内では、同じ意味として、キリスト者(しゃ)とか、キリスト教信者といった表現が多く使われるように思います。
ですが、禁止されている訳ではありません。
実際、英語圏から来た司祭は、英語系の表現「クリスチャン」という言い方をすることは、よくあることです。
個々人の感性は分かりませんが、多くの信者は、自分達が使い慣れないだけで、
「クリスチャン」と呼ばれても特に間違いではないので、拒絶感はないと思います。
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【補足】
日本におけるキリスト教内でいえば、教派によって、キリスト教信者を表現するのに幾つかの用語があります。
・ 正教会: 「ハリスティアニン」
・ カトリック教会: 基本的には「キリスト者」
・ プロテスタント諸派: 「キリスト者」、又は「クリスチャン」
これらは単なる言語的・慣習的な問題なので、基本的に意味に違いは無いです。
経緯からすると、
明治以降、キリスト教信者に対する表現は、基督信徒などの表現がされます。
明治後期あるいは大正頃になると、基督者という単語も使われるようになったようです。
戦後になると、基督がカタカナ化し、キリスト者という表現が多くなされるようになります。
およそ同時期に、話し言葉などで「クリスチャン」という英語表現が急速に一般化します。
想像するに、戦後の米国文化の積極受容の流れの中、英語表現への好感度が高まったからかも知れません。
余談ですが、
最近では、殆ど聞かなくなりましたが、近年までキリスト教信者は「耶蘇(やそ)」と呼ばれることもありました。
「耶蘇」自体は、中国語での「イエス」ですので、本来信者をいうべきものではないですが、
転じて信者について言うようになったように思います。
元々は悪い意味は無かったわけですが、日本語で「耶蘇」と呼ぶときには侮蔑的なニュアンスがありました。
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カトリックの人がただキリスト教の信者ということだけわかってもらえば
いいとするなら、クリスチャンと言いますし、キリスト教の中でもカトリックと
いうことを強調したいのならカトリックというでしょうね。
普通の教養のあるカトリック教徒の人に向かって「あなたはクリスチャンですか、
カトリックですか?」と訊けばちょっと不思議そうな顔をされるかもしれませんが
「どちらでもあります」と答えてくると思いますよ。
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そこに信仰があれば、細かい事は気にされないのではないでしょうか。 合掌
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